人事コンサルタント、フォトグラファーの石野敬祐のプロフィールに興味を持って頂きありがとうございます。ここでは、僕の半生を紹介しつつ、どんな人間なのかを公開しています。
教師に憧れる幼少期
幼少期は関西を中心に親の転勤についてまわる。
横浜→大阪(幼稚園年少)→奈良(幼稚園年長〜小4)→三重(小5・6)→奈良(中学)→京都(高校・予備校、家は奈良)→神奈川(大学以降)
大学前までに一番住んでいた期間が長いのは奈良だが、そこまで地元、出身というほどの思い入れなどもなく過ごす。
好奇心旺盛ではあるものの、内向的な幼少期。小学5, 6年で三重に転校するも軽いいじめに遭うなど水が合わず。さらに中学受験をするもうまくいかず、奈良の公立へ進学。
野球が好きな人が将来の夢プロ野球選手、などという中、スポーツが好きなど、特定の何かに思い入れがない中、自分に夢、憧れの職業がないと悩む。
学校や親戚などに聞かれた時には、電車は好きで運転手・車掌さんみたいな話をしていたがあまりしっくりこず。
そんな中、奇しくもHRの時間に、クラスメイトから担任になぜ先生になったかという質問が出た。
「俺は蝶々のことが一番好きやから先生になった。仕事にするとなるとやっぱり大変なこともある。一番好きな蝶々のこともそこから嫌いになるってのは違うなと思って、趣味の世界に留めると決めた。蝶々以外の中でやりがいを感じられることとして先生を選んだんや」
好きなことが全て夢になるわけじゃないということに気づかせてもらったことがきっかけで、そういう視野を広げることができる先生という職業に憧れを抱く。
高校から私立へ。洛南高校に進学。
中学時代から科目への得手不得手はなかったが、論理立てた数学は好きだったり、1年で受けた世界史の授業があまりにも面白くないということで理系へ。さらに哲学的なことに興味を持ってしまい、社会科では受験には不利極まりない倫理を選択する。
教育に対する思いがあるからこそ、コンサルの道へ
小さい頃からの夢であった学校の先生を目指し、教職課程を取り中高の数学の教員免許をとった。
しかし、就職活動では先生という選択肢は持たなかった。
教育実習先は必ず母校の高校がいいと、それを実現させるがそこで絶望をする。生意気な生徒に振り回されるということも経験したが、何よりも高校生の時代に習っていた先生たちの中に、時間を守らないなど社会人としてどうかという振る舞いをしているのを目の当たりにしてしまい失望する。彼らに社会人経験がないからだと思い、一般的な就職を目指すことにした。
大学を選ぶときと同様、やってみていないものの中でやりたいものは決められないという考えから特にこの業界、この職種、などという思いは何もなかった。ただある時「コンサルティングファームだと1年の経験は事業会社の3年ぐらい濃いものだ、給料もいい」という話を聞き、コンサルを目指すことになる。まずはよく言われる3年はいて、その後に学校の先生になろうと思っていた。
新卒で入社して3年が経とうとするとき。初配属のプロジェクトから抜けて別プロジェクトにいき、今までに感じていない、お客様や上司・チームから必要とされている感覚を得られるようになった。ただ自分は教員を目指してきたのだと、私立の中高の教員に応募をした。
非常勤講師で一つ内定をもらったものの、そのときにもらっていた給与から比べると一気に下がる月10万ほどのものだった。さらに社保には入れてもらえないもの。夢ということもあったが、生活ができないとなるとバイトなどの生活。そこまでやりたいのか? 中学の担任の話、好きなことでも仕事にしないという選択肢もあるということで、非常勤講師の内定を断り、そのままコンサルタントとしての生活を続けることにする。
徐々に経験・実績を積み、ようやくちゃんとしたコンサルタントとして振る舞えている実感も出てきて、お客様やチームに貢献できていると感じるようになった。
再び、人への興味
僕の入ったコンサルティングファームは当時3000名規模の大きい会社だったが、社内研修の多くは先輩が担当し、それは新人研修でも同じだった。教育、人に対する思いはやはり残っていた僕は、新人研修プロジェクトに立候補した。新人から見た時の模範とならねばならぬという意味でも、一定成果を上げている人でないと選ばれないと言われていたが、なんとか無事にアサインされた。
ただここで苦難が生じる。受け持った新卒の多くから嫌われてしまったのだ。
新卒メンバーに対して定期的にとるアンケートでも、他のメンバーのスコアと明らかに違う結果だった。プロジェクトマネジャーに相談しても、これだけ一生懸命頑張ってるのにね、と慰めてくれたが、解決策は見つからなかった。
ただ、やはり育成領域には想いがあった。上手くいかなくても、必死にできることをやっていった。多少は伝わるメンバーもいたが、やっぱり最後まで僕のアンケート評価の結果は低いまま、僕の人事評価も然りという結果に終わった。
それでもやっぱりこの領域が好き、という想いは残ったままだった。
教育などをするまで3年というつもりだったが、新卒で入ったコンサルティングファームには結局6年弱もいることになった。
ただ、そんなタイミングで大きなアクシデントが起こる。
網膜剥離になったのだ。
元々視力が悪い僕。視力が悪い人は眼球は綺麗な球体ではなく、ラグビーボールのような形となり、尖っているところの網膜が剥がれやすい状況だった。
網膜剥離の手術は無事成功した。術後も問題なく退院した。まもなく日常生活にも支障なく過ごせるようになった。
死にかけたというところがずっと心に残っていた。
その時期、父に癌が見つかり入院や治療をしていたことも重なった。
ずっと五体満足じゃいられないかもしれない。なら先送りせず、自分がチャレンジしてみたいことにチャレンジしよう。成功できそうになるまで待っていたら、また目の支障が出てきてできないことも出てくるかもしれない。何かの事故にあって、手足が動かなくなるかもしれない。それでもこ仕事を続けるのか?
自分の中で答えはNOしか出てこなかった。
そこで、学校にというのではなく、新人研修などの講師登壇もする、人材育成コンサルタントという形で先生の夢を追うことになった。
とある時の2月中旬に無事に研修の会社に入り、4月の新人研修を控える形となった。
憧れた道での試行錯誤
僕の夢は早速挫かれる。
会社としての最重要クライアントの新人研修に登壇し、大失敗をする。お客様からNGがでて途中降板させられることになり、役員が尻拭いに入るという事態を引き起こしてしまった。
その後、他の研修に登壇し、そこまで酷いところにはならなかったものの、低調な結果を続けてしまった。
あれだけ準備したのに。夢だったはずの道に進んだはずだったのに。
ずっと辛かったものの、やはりこの領域からはやめようという気持ちにはならなかった。
一番の稼ぎどき、新人研修が終わり、当初の僕の講師育成計画は大幅に見直され、講師としての稼働は本当に限られたもの形となった。たまに担当する講師では、相変わらず低調な結果だった。
幸い、研修以外の仕事では安定的に成果を出せていた。
この登壇でダメなら、今後石野を研修講師としてカウントしないと会社として見極めるタイミングがきた。なりふり構わず、カッコつけず、今まで以上に出し切った。細かいことは覚えていない。結果、奇跡が起きた。
今まで5段階で平均4点いかないことが多かった僕が、全てのアンケート項目でオール5という、社内でもほとんどないという結果になった。上司やチームメンバーはもちろん、会社全体でそれを讃えてくれ、翌年の新人研修などでも登壇を続けられることになった。
その後、社内の基幹システム導入のプロジェクト、リリースできずの火消しタイミングでプロジェクトマネジャーとしてアサインされ、なんとかそれも実現させるなど、ようやく本当の意味で会社の一員になれたと思った。
ただ、その時期に癌を患う父の体調が悪くなる。医者から持ってあと3ヶ月ぐらいかもしれないから覚悟しておいてほしいと言われる。
それでもようやく手応えを全方位で感じられてきた仕事を頑張ろうとしていたタイミングだったので、朝も夜も平日も休日もなく、働いたり自己研鑽をし続けていた。社内基幹システム導入プロジェクトあたりから、特に労働時間は長くなっていた。実家暮らしをしてきたわけだが、帰る時間も遅く、親ともほとんど顔を合わせない毎日だった。
ある時、母にこう言われる。
「お父さんが、お前の体調が心配だって言ってたよ」
余命いくばくもないと言われた病気の父に心配をかけてしまっているということに心を揺さぶられ、色々生活・キャリアをまた考えるようになった。
その後たくさん受注できるようになる大ヒット研修を生み出したタイミングで、何か自分の心が晴れた。この会社に入ってはじめてやり切ったと感じられた。もう次の新人研修は登壇しない。そう決めた。
もちろん、母から伝え聞いた父からの言葉が大きなきっかけだった。そしてこの仕事がつまらなくなったわけでもない。社内の人間関係がうまくいかなかったわけでもない。
ただ、次に進もうという気持ちになったのだ。
結局そのあと父は3ヶ月ではなく3年ぐらい命を繋ぐことになった。
育成だけで終わらせたくない
研修に関わりながら、ずっと引っかかっていたことがあったのだ。それは、研修だけでは何も変わらないということだった。
正確には研修が大きなきっかけとなり、化ける人もいると、お客様の人事から聞いたりすることはあった。ただ、多くの人はその研修がためになったというだけで、あまり変わったりしていなかった。
営業をする時にもフォローアップ、上司もセットの研修など、研修をして終わりにならない提案が増えるようになった。ただ、フォローアップ研修で再度受講生に触れ合っても、思っている以上に伝えたかったことは受講生には届いていないことを感じていた。
ビジネスとしては研修をやればそれで責任は果たしているし、また次年度、次回などの受注につながればいい。それは理解している。ただ、単なるエンターテイメントになってしまうというのも違和感が拭えなくなっていた。
ある時、同僚などとこんな話をしていた。
研修でやっても現場でやってもらわんと身に付かないよな。結局受講生が頑張っても、その会社がどういう行動をとることをよしとするかと違うことだと評価されないし、結局は元々研修がなくても自分でやれる人以外は変わらないのかもしれないなと。
やり切ったという気持ちが起こった時に、この言葉を思い出した。人事全般があった上で、研修という、人事の一領域があればいいんじゃないか。
全部ができなくても、全体像がわかっていながら受講者に伝えることができれば、もっと良い変化に立ち会えるのではないかと思い、人事領域全般に関わることを目指し、コンサルタントキャリアを生かした形で転職をした。
入社した人材紹介会社戦略子会社で、思った通りの経験ができた。引き続きの育成はもちろん、採用、評価、配置、人事戦略なども含めて経験をすることとなる。
MBAを持っている上司からの社内勉強会や人事制度策定、改定のプロジェクトで、ようやく人に関わる企業・組織の動きがわかるようになった。
自分の仮説は間違ってはいないものだと思うようになった。
外部からでは出来ないことがある
お客様から相談を受け、ヒアリングしてみると、問題の本質は相談されたところだけではなく、別の領域に根っこがあることが往々にしてあった。なかなか人が採用できず足りないと相談されても、詰まるところは業界水準からするとかなり賃金が安い人事制度になっているとか、退職しすぎで採用しても追いつかないという、社内のマネジメントや業務の仕方に問題があるなどがすぐにわかるケースも多かった。
ただ相談していただいた人は例えば採用担当だったりして、その方の担当領域でないところまでは手が届かないことが多かった。企業によっては人事部長などが出てくることもあったが、人事にはそこまで予算がないなどと言われ、結局は受注しても小さな範囲にとどまることが多かった。
せめて社内から提案ができれば、クライアントがコンサルにお金を払わずに済む。最悪自分が全領域やればいける。そう思うようになり、事業会社内で人事改革を行いたいという思いに移っていった。
そして転職したSIの会社で働き方改革の社内プロジェクトで、リーダーとして動くことになった。半分は人事コンサルタントとして引き続き外向けの動きをしながら。
働き方に関わって賃金、評価などのルールとなる人事制度改定など、企業経営の根幹になるところを説得できるまで、入社したばかりの僕にはまだ信頼貯金が足りないと感じた。ただ、周りが動けない中でも自分が動くことで進められることもたくさんできたので、時間をかけていけばチャンスができると信じて進めていた。
ただ、大型顧客のプロジェクトが複数立て続けに炎上するなど、全社で対応しなければいけない状況となったり、社長交代を控え、全社で方針転換や組織変更が行われるかもしれないということになり、働き方改革の動きが、小さなカイゼンレベル以外のものがほぼ止まってしまった。
その時期に、今度は家に問題が起こる。母が難病にかかったのだ。
すでに父も亡くなり、一人っ子の僕が面倒を見なければいけない状況となった。
志なかばではあったが、この先も働き方改革という旗印のもとで進めたかった人事改革ができる環境が怪しくなったことも後押しとなり、残る唯一の肉親、母親を優先することをきめ、退職することになった。
介護と仕事の両立
介護とは言いつつ、社内働き改革を進めていた会社から辞めた当時は母も自分で動くことができていた。不自由がある時があるので一部サポートという形。
とはいえ、少しできたゆとりに対し、今まで興味があってもできなかったこと、なかなか時間が取れなかったことなどに時間を割くことにする。
最初は音楽。ピアノ弾き語りなどを頑張ってみるつもりだったが、そのタイミングで新型コロナウィルスが発生し、色々支障が出るようになる。
そのタイミングで写真をはじめてみ流ことになった。
軽い気持ちで始めた写真だったが、想像以上に面白さを感じた。
写真で繋がる仲間にも恵まれ、新たな居場所になった。最初は単に知らないことをやって成長できている楽しさ、綺麗なモデルさんを撮ることの楽しさ、写真のことを語り合うなどが面白かった。
それがだんだん、写真に向き合っていると、今まで見落としていた世界の美しさや、目の前の人のいろんな側面も意識できるようになってきた。目の前に新しい世界が拡がった気がした。
そうこうしながら介護は進めながらも、いつの間にか無職生活が1年以上になっていた。
再度就職するも、やはり介護の両立は難しい
母から、私のせいで僕が働けないというのは嫌だ、未来を閉ざしてしまうのは嫌だと強く訴えられ、介護の状況として引き続き心配であったが、まだ今ならば大丈夫だろうということで就職活動を行う。
とはいえ、流石に次が5社目。長く働けてキャリアが広がる企業・ポジションを選びたいとして、事業会社の管理部門系をまた探した。
社内での人事などの管理部門の応募は、前回は事業会社の管理部門経験がなく書類選考で落ちることがほとんどが、働き方改革ではあったが管理部の名刺も持って社内プロジェクトを進めた部分が効いたのか、選考に進むことができるようになった。
その中で管理部長候補としてのポジションにご縁があって入社。中古自動車売買という業種、簿記の勉強をしたぐらいしかわからない経理、レポートラインにのる初めての上司、しかも部下は全て女性。パートさんもみる。未経験だらけだったが、介護への配慮として例外的な在宅勤務なども認めてもらいつつ、なんとか業務を進め、入社後半年で部長に昇格。大手企業の子会社社員という採用ではあったものの、その部門をもつ親会社の事業部の管理職としての動きも求められるなどになってきた。
ただこのタイミングで母の緊急入院がおこり、それも引き金となってほぼ寝たきりと診断される要介護4の状況にまで母の状況はおちこんだ。ベッドから動けなくなり、もう一人では生活できなくなった。
なんとか仕事との両立をしようとしたものの、気持ちも体も介護への負担が圧倒的にふえ、少なくとも管理職との両立はできなくなり、やむなく休職、のち退職ということになった。
介護も経験してみて見える世界は、圧倒的に広く、重かった。
やりきる介護
その後、また母が緊急入院することになった。
2週間ほどの入院、退院をしたと思ったらまた1週間しないでまた救急車を呼ぶこととなった。
新型コロナウィルスの環境もあり面会ができないのが病院の基本ルールだったが、もう先がない可能性が高いと、特例で面会が許された。親族もいいと言われ、親族も連れて行った。
それで希望を持ったのか、母は一時的に回復をする。その病院の対応が悪かったらしく、母がどんな状況であっても退院をしたいと言い出す。ただ、もう家で面倒が見られる状況を遥かに超えているということで、家の近くのケアホスピスを契約し、退院先をそちらにする。
母が欲しいと言ったものを持っていくのはもちろん、それがなくても、毎週母に会いに行った。少しずつ弱っていくのを明らかに感じていた。
僕が家を離れて出掛けている時、ケアホスピスから連絡があり、状態が急変したと。病院に駆けつけるも死に目には会えず。ただ、やれることは全てやりきれたという感覚があり、何も後悔はなかった。
また1歩を踏み出す
葬儀が終わり、相続・名義変更などを進めながらも、徐々に自分自身の人生を振り返るようになった。
今までできなかったことも色々やっていこうと思っている。
僕は目の前の人がハッピーになるお手伝いをしたいという気持ちで動いていたことが多かった。この世界を知り、それを他の人に伝えていく、表現していくということに興味があると改めて考えている。
コンサル/問題解決スキル、人事領域の経験などから言えることは、
本来、きちんと練られた戦略、組織編成、業務設計をしていれば、働いていて不幸になる人は圧倒的に減るはずだということ。ただ、社会の慣性・惰性や、思い込み・思考停止によってそれができていないことが多い。
みな、幸せになるために生まれてきたはずだ。次の世代に素晴らしいものを引き継ぐ使命を持って生まれてきたはずだ。人生で身につけてきた力は全て、他人のために使うものだと思っている。