A部署を助けたら、B部署が倒れた
A部署のプロジェクトが遅延している。リソースが足りない。だから、全社から人を集めてA部署を支援する。A部署は立て直る。
でも、人を出したB部署は手薄になる。B部署が担当していた顧客対応が遅れる。クレームが増える。B部署のマネージャーが疲弊する。
A部署を「助けた」つもりが、全体としては問題が移動しただけだった。
これは、誰かが悪いわけではない。A部署を助ける判断は正しい。B部署から人を出す判断も、その瞬間では合理的だ。
問題は、その判断が「部分」を見て行われていることだ。
部分最適という交通事故
部分最適という言葉がある。
A地点の交通渋滞を解消するために、A地点の信号を変える。結果、A地点の渋滞は解消する。でも、流れが変わったことで、B地点に新しい渋滞が生まれる。
A地点だけを見ている人にとっては、改善だ。でも、全体を見ている人にとっては、問題が場所を変えただけだ。
組織の中でも、同じことが起きている。
営業部が「自部署の目標達成」のために顧客に過剰なサービスを約束する。開発部がその約束を実現するために無理をする。開発部が疲弊する。品質が下がる。クレームが増える。営業部がクレーム対応に追われる。
それぞれの部署は、自分の範囲では合理的に動いている。でも、全体としてはエネルギーが漏れ続けている。
部分最適は、善意と合理性に基づいて行われるから、余計にタチが悪い。 誰も悪気がない。でも、全体が壊れていく。
「回っているように見えていた」部分最適
僕自身、部分最適の怖さを痛感した経験がある。
ある事業会社に管理部門の責任者として入ったとき、管理数値を集計するためのツールが引き継がれた。前任者が独自に作り上げたもので、本人の中では回っていた。日々の数字を出し、経営にも報告していた。
でも、いざ中身を確認してみると、数字が合っていなかった。それも多少のズレではない。月によっては大きな乖離があった。元々は別の会社で使っていたツールを、統合後に中途半端に作り変えたものだった。本体側の管理基盤ときちんと連携する設計がされていなかった。
前任者の範囲では、「数字を出す」という機能は果たしていた。報告も回っていた。でも、一段広い系——正確な数値に基づいた意思決定——という視点で見ると、感覚での判断が常態化していたことがわかった。
僕がやったのは、手作業を減らして数式で自動化し、少なくとも管理会計のレベルでは数字を合わせることだった。過去に遡ってすべてを修正することはできなかったが、「今ここから先は正確な数字で判断できる」状態にはした。
これは前任者が悪かったという話ではない。統合時に、全体の設計として「旧ツールをどう本体と接続するか」を誰も描かなかった。部分で回っているように見えていたから、放置された。部分最適の最も危ないところは、当事者からは「うまく回っている」ように見えることだ。
一段広い系を見なければ、ズレに気づけない。そして多くの場合、ズレに気づくのは、新しい人が入ってきたときだ。
なぜ「全体」が見えないのか
「全体を見ろ」。
こう言うのは簡単だ。でも、実際には難しい。なぜか。
組織の構造が、全体を見せないように設計されているからだ。
評価制度を考えてみてほしい。多くの組織では、個人や部署の成果で評価が決まる。営業部の目標は売上。開発部の目標は納期。人事部の目標は採用数と離職率。
この評価構造の中にいると、自分の部署の数字を最大化することが、最も合理的な行動になる。他部署にどんな影響があるかは、評価の対象外だ。
つまり、「部分だけを見る」のは、人の能力の問題ではなく、評価構造が生んでいる必然なのだ。
視座の欠如は、個人の資質ではない。構造の問題だ。
視座を上げるとは
「全体を見る」と聞くと、何か特別な能力が必要に思えるかもしれない。経営者だけが持つべき視点。カリスマ的なリーダーの素質。
でも、そんなに大げさな話ではない。
視座を上げるとは、自分の見ている「系(システム)」の範囲を一つ広げることだ。
自分のタスクだけを見ている人は、チームという系に広げる。チームだけを見ている人は、部署という系に広げる。部署だけを見ている人は、会社全体という系に広げる。
全部を一度に見る必要はない。一段だけ広げるだけでも、見える景色は劇的に変わる。
たとえば、自分のプロジェクトの遅延を報告するとき、「自分のプロジェクトが遅延しています」と言うのと、「自分のプロジェクトが遅延しています。これにより、下流の○○プロジェクトのスケジュールにも影響が出る可能性があります」と言うのでは、まったく違う。
後者は、一段だけ広い系を見ている。それだけで、判断の質が上がる。
「犯人探し」から「構造の診断」へ
視座が低い状態では、問題が起きたとき「誰が悪いか」を探しがちだ。
「営業が無茶な約束をしたからだ」「開発が納期を守らなかったからだ」「人事が採用をサボったからだ」。
でも、一段広い系で見ると、誰も悪くないのに問題が起きていることに気づく。
営業は営業の評価基準で最善を尽くした。開発は開発の制約の中でベストを尽くした。人事は人事の予算でできることをやった。全員が合理的に動いた結果、全体が壊れた。
これは、記事05[※1]で書いた設計者のスタンスそのものだ[※1]。「人を責めない。構造を疑う。」
部分最適が全体を壊すとき、直すべきは個人の行動ではなく、全体を見渡す仕組みだ。
部署横断の指標を設ける。部門間の影響を可視化する会議体を作る。評価制度に「全体への貢献」の要素を入れる。
人を変えようとしなくていい。構造を一つ書き換えるだけで、同じ人たちが違う動きをし始める。
自分の「系」を広げてみる
最後に、一つだけ実践的な提案をしたい。
今日、自分が取り組んでいる仕事を一つ選んでほしい。そして、こう問いかけてみてほしい。
「この仕事の結果は、自分の範囲の外に、どんな影響を与えるか?」
良い影響でも、悪い影響でもいい。自分の仕事が、下流にどう繋がっているかを一つだけ想像してみる。
それだけで、あなたの系は一段広がっている。
組織の不全を解剖するとき(→記事06[※2]〜記事09[※3])、境界線、時間軸、目的、文脈を見てきた。でも、それらすべてを統合するのが、この「視座」だ。
部分しか見ていなければ、どんなに正しい分析も、全体にとっては不全の原因になりうる。
設計者は、常に自分が見ている系の範囲を意識する。そして、少しずつ、その範囲を広げていく。
