「鉄球」と「ピンポン球」
同じことを言っているのに、ある人の言葉は刺さり、自分の言葉は流される。その差は何だろう。
同じ速度で飛んでくるボールでも、鉄球とピンポン球では、当たったときのインパクトがまるで違う。
物理の法則だ。衝撃=質量×速度。速度が同じなら、質量が大きい方がインパクトが大きい。
その差は何か。
もちろん、ポジションや実績の差はある。でも、それだけでは説明できない場面がある。同じ立場でも、言葉の重みが違う人がいる。
その差は、覚悟の質量だと僕は思っている。
覚悟とは何か
覚悟という言葉は、精神論に聞こえるかもしれない。でも、ここで言う覚悟は気合の話ではない。
覚悟とは、「自分の選択の結果を、すべて自分で引き受ける」と決めていることだ。
記事13[※1]で「ハンドルを握る」と書いた[※1]。ハンドルを握っている人の言葉は重い。なぜなら、結果がどうなっても「自分が選んだ」という事実を引き受ける準備ができているからだ。
逆に、ハンドルを預けている人の言葉は軽い。うまくいかなかったときに「あの人がそう言ったから」と逃げる余地を残しているからだ。
聞いている側は、その差を無意識に感じ取る。
逃げ腰の設計は、インパクトがない
ここで一つ、実務的な話をしよう。
提案するとき、「もしうまくいかなかったときのために」と、あらかじめ言い訳を準備する人がいる。
「これはあくまで一案ですが」「間違っているかもしれませんが」「他にも選択肢はあると思いますが」。
こうした前置きは、一見謙虚に見える。でも、設計者の視点で見ると、これは衝撃の質量を自ら減らしている行為だ。
ピンポン球を投げているのと同じだ。速度(ロジック)はあるかもしれない。でも、質量(覚悟)がないから、当たっても響かない。
もちろん、「断言すれば通る」という話ではない。根拠のない断言はただの暴走だ。
ロジック(速度)と覚悟(質量)の両方が揃ったとき、インパクトは最大化する。
選択を「正解」にする
別の記事で「遠回り」について触れている[※2]。
あの記事で伝えたかったことの一つは、選択に「正解」はない。選択を「正解」にするのは、その後の行動だということだ。
「この会社に入ったのは正解だったのか」「この転職は正しかったのか」「あの選択は間違いだったのか」。
こうした問いには、実は答えがない。正解だったかどうかは、その選択の後に何をしたかで決まる。
だから、選択する時点では「正解」を探す必要はない。選んだあとに「正解にする」覚悟があれば、それでいい。
この覚悟が、主人公としての質量を生む。
悪い結果も「データ」にする
覚悟を持って選択した結果、うまくいかないこともある。
当然だ。すべてがうまくいく保証はない。
でも、記事02[※3]で書いた通り[※3]、うまくいかなかった結果は「バグ報告」だ。データだ。次の設計のための情報だ。
覚悟を持って選択した人は、悪い結果を「失敗」ではなく「データ」として受け取れる。なぜなら、自分が選んだからだ。自分が選んだからこそ、その結果を分析できる。「なぜうまくいかなかったか」を冷静に見つめられる。
一方、他人に選択を委ねた人は、悪い結果を「誰かのせい」にする。そこから学びは生まれない。データにならない。次の設計に活かせない。
覚悟は、結果にかかわらずハッピーでいられる構造を生む。 なぜなら、結果がすべてデータになるからだ。「正解だった」でも「次はこうしよう」でも、前に進める。
質量を上げるために
最後に、質量を上げるための実践的な問いを一つ。
何か判断を迫られたとき、こう問いかけてみてほしい。
「この選択の結果を、すべて自分で引き受けられるか?」
答えが「はい」なら、そのまま打てばいい。鉄球で打てる。
答えが「いいえ」なら、二つの可能性がある。一つは、まだ準備が足りない。もう少し情報を集めてから打った方がいい。もう一つは、覚悟ができていないだけだ。準備は十分なのに、結果を引き受ける覚悟が足りない。
後者なら、こう考えてみてほしい。
「どの選択をしても、後から正解にできる。」
そう信じられるなら、覚悟は自然と生まれる。なぜなら、選択に「外れ」がないのだから。
設計者は、正解を探す人ではない。選択を正解にする人だ。
